ようこそ、大河ドラマの舞台
宇陀松山へ

宇陀松山観光ガイド

2026年 NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の舞台

豊臣秀長と
宇陀松山城

百姓から天下人へ駆け上がった兄を、
最も近くで支え続けた「最強の弟」。
その秀長が治めた大和国の要衝、宇陀松山。

2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目を集める豊臣秀長とよとみひでなが
秀吉の弟として天下統一を支えた秀長が治めた大和国には、彼の家臣団が守った城がありました。
そのひとつが、奈良県宇陀市に残る宇陀松山城
ドラマで見たあの時代の空気が、この城と城下町に今も息づいています。

豊臣秀長とは

豊臣秀長 肖像画

豊臣秀長 イメージ

生没年
天文9年(1540)〜 天正19年(1591)享年52※生年は一説に天文8年(1539)
官位
従二位 権大納言(大和大納言)
領地
大和・紀伊・和泉 最終的に110万石
居城
大和郡山城(奈良県大和郡山市)

豊臣秀長は、兄・秀吉の片腕として天下統一を支えた武将。
内政・外交・軍事のすべてに優れ、「秀吉の右手」と称されました。誠実で温厚な人柄から大名間の信頼も厚く、秀吉が表舞台で活躍する裏で、調整役・仲裁者として豊臣政権の「要」を担いました。

天正13年(1585)、秀長は大和・紀伊・和泉を与えられ、最終的に110万石を領する大大名に。
大和郡山城を本拠地とし、宇陀松山城には多賀秀種・羽田正親ら信頼する家臣を配して大和国東部の要衝を守らせました。

天正19年(1591)、秀長は52歳で病没。
「秀長が生きていれば豊臣家は滅びなかった」——歴史小説でも繰り返し描かれ、今なお歴史ファンの間で語り継がれるほど、その存在は政権の命運を左右するものでした。
没後、豊臣政権は急速に求心力を失い、関ヶ原・大坂の陣へと向かっていきます。

秀長と宇陀松山の歩み

1540

天文9年 — 秀長誕生

尾張国中村(現・名古屋市)にて、木下弥右衛門の子として生まれる。幼名・小竹(こちく)。兄の秀吉とは異父兄弟。※生年は天文8年(1539)とする説もある。

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宇陀松山城 築城

南北朝時代、宇陀郡の豪族・秋山氏によって築かれたとされる。以降、宇陀地域を支配する拠点として機能。

1570

元亀元年 — 秀吉のもとへ

兄・秀吉に従い、織田信長の家臣として各地を転戦。秀吉の補佐として頭角を現す。

1585

天正13年 — 大和国拝領・宇陀松山城が秀長の支配下に

秀長が大和・紀伊・和泉の3国を与えられ、大和郡山城に入城。宇陀松山城には伊藤義之を城主として配置。秀長の家臣団による統治が始まる。

1585〜

城主の変遷(秀長家臣団)

伊藤義之 → 加藤光泰 → 羽田正親 → 多賀秀種と、秀長が信頼する武将が次々と城主を務める。特に多賀秀種の時代(1592〜1600)に本丸御殿や天守、高石垣など城郭の本格整備が行われた。

1591

天正19年 — 秀長逝去

大和郡山城にて病没。享年52。秀長の死後、豊臣政権は急速に不安定化していく。

1600

慶長5年 — 関ヶ原の戦い

当時の城主・福島高晴は東軍に属し、宇陀松山城を維持。その後、織田家の支配下に移る。

1615

元和元年 — 破城

大坂夏の陣後、幕府の一国一城令により小堀遠州が破城を担当。天守・御殿・石垣が意図的に崩される。発掘調査では、崩落した石垣や投棄された屋根瓦が当時の姿のまま見つかっている。

2006

国史跡指定

宇陀松山城跡が国の史跡に指定される。

2017

続日本100名城に選定

城郭ファンの間で注目度が高まる。スタンプラリー設置。

宇陀松山城を歩く

秀長の家臣たちが守った山城。標高約470mの山上で、
あなたの足元に眠る戦国の痕跡を探してみませんか。

宇陀松山城跡 散策マップ

宇陀松山城跡 散策マップ
松山西口関門(通称黒門)
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松山西口関門(通称黒門)

城下町への出入口として建築された門で、昭和6年(1931)に国の史跡に指定されました。西口関門から春日神社に続く道は、町の大手筋に当たります。

春日門跡
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春日門跡

春日門は大手筋の正面に位置し、町人地と一段高い武家屋敷地を分ける虎口であり、城郭と武家地の大手門に当たります。

抜け穴伝説 in 春日神社
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抜け穴伝説 in 春日神社

春日神社境内の手水舎裏の石垣に空いた穴には、「宇陀松山城跡の天守から続く穴で、城主が有事の際、利用する抜け穴である」という伝説が残っています。

南西虎口部 横堀
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南西虎口部 横堀

登城路の終着点(城の入り口)にある大横堀(人工的に造った空堀)です。現在は道(土橋)となっていますが、本来は木橋がかかっていたと考えられます。

南西虎口部 雀門
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南西虎口部 雀門

登城路の終着点付近にあり、文禄3年(1594)の「阿紀山城図」には「雀門」の記載があります。門を入口とし虎口が形成されています。

南西虎口部 通路北側の石垣
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南西虎口部 通路北側の石垣

南西虎口の北側を形成する石垣です。この石垣は横に目地が通っており、石の大きさも意図的にそろえられています。石材の多くは大宇陀本郷で産出したと考えられます。

南西虎口部 門跡2
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南西虎口部 門跡2

北の郭と東の郭への分かれ道に当たります。周辺の発掘調査で酢漿草文(かたばみもん)の鬼瓦(家紋瓦)が出土したことから、多賀秀種(たがひでたね)が在城していた段階には形成されていたと考えられます。

南西虎口部 門跡3
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南西虎口部 門跡3

石製の唐居敷(門柱や門扉の軸を支える厚板)を検出しました。そのため、ここに門があることが分かりました。

本丸から見る大峰山脈
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本丸から見る大峰山脈

本丸南側から大峰山脈を一望することができます。奈良県でも特に優れた景観であることから奈良県景観資産「大峰山脈が眺望できる宇陀松山城跡」に登録されています。

本丸御殿
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本丸御殿

瓦の出土量が少ないことから、桧皮(ひわだ)か柿(こけら)葺きの建物であったと考えられます。御殿は「遠侍」「家臣留」「広間」「書院」「台所」の5棟から成っていたと考えられます。

天守に至る虎口
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天守に至る虎口

天守と本丸を連絡する二つの虎口です。特に北側は本丸御殿と天守「奥向御殿」を繋ぐ付櫓があったと考えられます。

天守
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天守

文禄3年(1594)の「阿紀山城絵図」には「天守」の記載があります。鬼瓦や鯱瓦が複数出土し、当時天守があったことを裏付けています。

天守郭(てんしゅぐるわ)の土居・横堀
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天守郭(てんしゅぐるわ)の土居・横堀

天守郭を形成する土居とそれを取り囲む横堀です。土居や堀などの現在に残る地形は全て人力によって土を盛りあげ、削り切り造られています。

天守から見る大和富士
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天守から見る大和富士

天守北側からは榛原の市街地と「大和富士」とも呼ばれる額井岳などの山並みを一望できます。宇陀松山城跡は宇陀郡支配の拠点であるとともに、宇陀から伊勢を通る街道を押さえる役割を担っていた城と考えられています。

隅櫓の破城痕跡
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隅櫓の破城痕跡

発掘調査で確認された破城の痕跡を示す遺構です。石垣が崩された当時の状態が残っています。

南虎口部階段
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南虎口部階段

発掘調査で確認された本丸と下城を連絡する通路遺構です。通路が折れ曲がっており、防御を考えた構造となっています。

本丸南東虎口部
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本丸南東虎口部

本丸に入るための虎口の1つです。本丸から一段降りたところに平坦面を作り、虎口としています。また、番所(守備や監視を行う施設)と考えられる礎石建物が確認されました。

大門跡
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大門跡

文禄3年(1594)の「阿紀山城絵図」には「大門」の記載があります。そのため、かつては大手道であったと考えられます。発掘調査で門の礎石と、大量の投棄された瓦が確認されました。

※ A〜D は現在立ち入ることができないスポットです

在りし日の宇陀松山城に想いを馳せる

宇陀松山城 復元CG

本丸御殿

城の最も広い平坦地——東西約50m、南北約45mの本丸に、城主の政務と暮らしの場である御殿が建っていました。

御殿は「遠侍」「家臣留」「広間」「書院」「台所」の5棟で構成。屋根には瓦ではなく桧皮(ひわだ)や柿(こけら)が葺かれていたと考えられています。南向きに配置された殿舎群は、左手前から右手奥へ雁行するように並び、柱間は6尺5寸(約2m)に統一されていました。

門を潜ると、まず「遠侍」の玄関が目に入ります。奥へ進むと家臣が控える「家臣留」、西に「台所」、東に中心殿舎の「広間」、さらに奥に「書院」が続きます。

本丸の東側、約4m高い位置にはかつて天守がそびえていました。本丸御殿と天守上の「奥向御殿」は、石垣積みの付櫓を通じて結ばれていたと推測されています。

本丸御殿復元イメージ図

本丸御殿復元イメージ図

城での暮らし

本丸跡からは、当時の暮らしぶりを伝える多種多様な土器や陶磁器が出土しています。食膳に使われた皿や碗、調理用の擂鉢や壺、そして茶道具——。

産地は備前・丹波・信楽・瀬戸・美濃・志野・唐津と日本各地に及び、中でも唐津焼が最も多く見つかっています。さらに中国・景徳鎮や漳州窯の青花磁器や白磁など、海を越えた輸入品も。茶道具や泉州堺産の焼塩壺の存在は、山上の城にも豊かな食文化と茶の湯の文化が根づいていたことを物語ります。

また、城跡からは膨大な量の瓦が出土しており、鬼瓦には雷神・桐文・菊文・亀・桃など多彩な意匠が施されています。一つとして同じ表情のものはなく、まさに「鬼面百相」の趣です。

本丸跡出土の陶磁器

1·2 備前産擂鉢/3〜5 泉州堺産焼塩壺/6·8 中国漳州窯系染付碗/7 中国景徳鎮窯系染付碗/9·10 唐津産碗/11 唐津産皿/12 織部向付/13〜16 土師質皿

なぜ、宇陀松山城は形を残していないのか?

元和元年(1615)、大坂夏の陣が終わった。

幕府は一国一城令を発し、各地の城を破却していく。宇陀松山城の破城を命じられたのは、のちに作庭家として名を馳せる小堀遠州。石垣は意図的に崩され、天守や御殿の屋根瓦は山の斜面に投棄された。

それから約400年——。発掘調査では、崩された石垣がそのままの姿で、投棄された瓦が折り重なったままの状態で見つかっています。壊された瞬間が、地中に封印されていたのです。

発掘調査で見つかった崩落石垣

発掘調査で確認された破城の痕跡

城と城下町、
セットで楽しむ

宇陀松山の町並み

宇陀松山城の城下町として発展した大宇陀おおうだの町並みは、2006年に重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されました。

城下町が形づくられたのは、秀長の家臣・多賀秀種がこの地を治めていた時代。地子銭(宅地税)を免除して有力な商人を招き、台地のゆとりある地形を活かして町割りを整備しました。京都の「うなぎの寝床」とは対照的な、間口も奥行きも広い町家が生まれた背景には、葛や薬草の加工に広い作業場を必要としたという産業的な事情もあります。

やがて町は宇陀紙・吉野葛・薬種の集散地として栄え、最盛期には「松山千軒」と称されるほどの賑わいに。日本最古の私設薬草園「森野旧薬園」が今も残るこの町は、「薬の町」としての顔も持っています。

元和元年(1615)に城が破却された後、織田家による藩政を経て幕府の天領へ。武士の拠点は消えても商業地としての機能は途切れず、大規模な改変を受けることなく、江戸から昭和初期の町家が約600mの通りに沿ってそのまま残りました。格子・虫籠窓・持ち送り——歩くだけで、時代ごとの建築の変化を体感できます。

大河ファンのための
モデルコース

秀長の足跡をたどる、歴史好きのための半日コース。

  1. 道の駅 宇陀路大宇陀

    無料駐車場。お土産・地元の食材もチェック。

  2. 松山西口関門

    城下町の入口。唯一現存する城門をくぐって散策開始。

  3. 重伝建の町並み散策

    格子・虫籠窓・持ち送りなど、秀長時代に基礎が作られた町並みを歩く。

  4. 宇陀松山城跡へ登城

    春日神社脇の登城口から約15分。石垣・本丸虎口・天守郭跡を巡る。

  5. 町家カフェで休憩

    城下町に点在する町家カフェでひと息。薬草茶や地元スイーツを楽しむ。